カメラを止めるな!

カメラを止めるな!

 

GYAO!で1日限定で無料配信されるというので、滑り込みで鑑賞してきました。

これ実は結構気になっていたのです。

 

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日本のゾンビゲームは今や『バイオハザード』を筆頭とした一大ジャンル。

では日本映画の方のゾンビはというと、まったく話題にならないどころか、観客を絶望の底に突き落とした挙句に怒りに震えて血の涙を流す野獣へと変えてしまうような、それはもう酷いものなのだ。

 

"和製ゾンビ"界隈は、足を踏み入れた者をダークサイドに染め上げる悪魔の大地なのです。

 

そんななか彗星のように現れ大ヒットを飛ばした本作。

はっきり言ってめちゃくちゃ気になるじゃないですか。

 

 

かくいう自分もその飢えた野獣の一人なのですが、本作は

「今度こそまともな日本のゾンビ映画なのか…?」と血走った眼をギラギラさせて期待する野獣たちと、そうでない人とで大きく評価が分かれる作品だと思いました。

 

 

 

↓↓以下ネタバレ↓↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作は"番組編"の"裏方編 "の二段構えとなっている。

ゾンビ映画を撮影するチームが本物のゾンビに襲われる筋書きの生放送である"番組"を、どうにかワンカットで撮りきる撮影チームのお話。

 

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ゾンビ映画として観ていいのかトリッキーな構成の意欲作として観るべきか悶々としながら、色々と酷過ぎる(仕様の)映像を延々と眺める時間が30分ぐらい続く。

 

これが自ら勇んで足を踏み入れたクソ映画の世界なら苦行もやぶさかではない。

ただ向き合い方が分からんもので、ゾンビ映画とした場合、わざとらしさフルスロットルな芋演技のせいで『屍病汚染』再来の悪夢が脳裏をよぎってざわざわと不安が襲う。

 

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『屍病汚染』稲船敬二 永遠の第一回監督作品

 

 

あと作中、

バイソンが憑依した、「エアーマンが倒せない」で有名な某絵師が荒ぶるシーンにちょっと癒された。

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 閑話休題 

 

 

そして裏方編へと移行し、エンドロールでは実際の撮影風景を映す三段構えのメタフィクションで幕引きとなる

 

飢えた獣の視点でいうと、「最後まで席を立つな!」の煽りを示すようなどんでん返しも特になく、肩透かしをくらった結果と言えるだろう。

 

ロメロの『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』のような「ホラー映画撮ってたら本物に襲われちまったぜ!」というような一層メタ構造のPOVとも違い、

作中に実際"本気のゾンビ映画"は存在しない。

 

結論から言えば、和製ゾンビに挑戦する映画ではなかった。

 

 

だが、それはあくまでゾンビ映画としての評価なだけであり、つまるところ最終的な感想はというと、

とても面白かった。

普通に楽しいどたばた喜劇だった。

 

 

そもそも主旨が違うのだ。

和製ゾンビ期待派に応えて"番組編"のクオリティを上げようとすると、"裏方編"でのツギハギ急拵えのハリボテ補修のような臨場感のある演出が成立しなくなってしまう。

つまり酷い演技や酷い演出が正解なのであって、きっと初めから"本気のゾンビ映画"を撮る気などないのだろう。

 

作中のシーンから察するに、多分監督自身和製ゾンビなんか上手くいくはずがないと思っている。

あくまで多重メタフィクション構造が主軸であり、それにはどう頑張ってもモノマネ芸の域を出ない日本人ゾンビは非常に都合が良い。

 

 

もうこの際、これが日本の"ゾンビ映画"だと言ってもいいのかもしれない。

 

 

低予算を逆手に取ったスタッフ全員の一体感を利用した意欲作。

無名だからこそできるチャレンジ精神旺盛な、臨場感あるスラップスティックコメディであった。

 

日記復活的な雑記とKOF'98UMOL(2017.10.30)

久しぶりにブログを更新してみようと不意に電撃が走り、衝動に身を任せている次第でございます。
やっぱり日記って思い立った時にフィーリングのままにドガガガ!と書き始めないと続かないんだろうなあ。

日記ってあとから読み返すと、この頃の自分はこんなこと考えてたんだなあとか思えて意外に楽しいものなんですよね。そして今こうやって過去の自分の考えを忘れているように、何か形に残しておかないとなくなってしまうものでもある。

相変わらず行間のうまい使い方とかよく分かってなくて見にくいことこの上ない仕様だが、どうせ自分ぐらいしか見ないので見映えは気にせず先の自分に残していくことにする。

手帳とかにその日の出来事なり感じたこと、知ったこと、考えたことなんかを書き留めておくだけで物事が整理されていくものだとはよく言われる。

本当は定期的に更新するのがいいんだろうけれど、まあぶっちゃけそれは自分にゃムリ。
まあなるべく定期的に更新できるようにしていければなあ、と思う。


さて、最後の更新が約1年前。それも日記でもなんでもないただの作品の羅列。どうしたものかね。書きたいことはいくらでもあるんだけども。

まあその空白の期間に何をやっていたかと言うとTwitterやってただけの話なわけだが。

ただまあそこでも実生活上の話なんかはあまり書かないし、むしろTwiiterもさぼりがちだったから既に消え去った記憶もあるんだろう。
さらに言えば、最近はKOFのアプリにドハマリしてしまっているせいかTwitterKOF用アカウントでの活動がメインになっている始末。

2アカウント使い分けていく体力がもたないんだよなあ。随時更新のSNS強者は偉大である。


ちなみに、というかようやく本題でもあるわけだが今メインで活動しているSNSTwitterKOF用アカウントである。
そしてそのKOFアプリというのがこれ↓

THE KING OF FIGHTERS '98 ULTIMATE MATCH Online】
http://goo.gl/ME0ZXv

略してKOF98UMOL。




言うなれば今流行りのソーシャルゲームであり、基本的にはKOF98を主体とした各キャラクターを育成して6人編成のチームを作り、キャラクターが各自備えている特性などを活かして他プレイヤーと争うゲーム。
これが本当によく作りこまれているゲーム性なのです。

そして、これはプレイヤーによる課金率の凄まじさが際立つゲームでもある。

話が少し逸れるが、今日本で名を馳せているソシャゲはパズドラ、ツムツム、モンスト等パズル性のあるキャラクターもののほか、アイマスラブライブFateなんかのアニメゲーム関連のものが多い。
さらに突っ込んで言うと、"美少女"を主体としたものが大部分を占めている。それはそれで思うところはあるのだけれども、しかし今回は別にそこを突っ込みたいわけではない。

つまり、そういった市場がある以上、日本のゲーム会社としても売れるもの、つまり美少女がメインのものを製作するのに躍起になるわけです。
そんな中、KOF、まあ98ぐらいまでの頃は筋骨隆々の野郎どもが主役の格ゲー時代の産物である。こんなものが今日本で売れている理由はなぜか。

それはこのKOFが昨今海を越えた中国で"拳皇"というタイトルで爆発的ヒットしていることを発端とし、そして日本の流行の変遷と共にKOFの製作会社も時代とともに動きがあったりなんだりして、つまるところこのKOF98UMOLは中国で製作されて日本に流れてきたゲームなのである。

中国が運営元という点において、やはり不具合対応やらに独特の雑な部分が見受けられて、訴訟問題にまで発展しかけた例もあるぐらいだが、基本ゲームシステムは正直今の日本のソシャゲではなかなか見られない高水準のものでもある。(あんまり知らないだけかも知らんけども)

話を戻してつまり何が言いたいかというと、今の日本では生まれえない奇跡のゲームなのだ。
上記の運営の対応に嫌気がさして悪態をついたり引退したりする人も多いが、個人的には最高にこのゲームを楽しんでいる。

あまり大っぴらに言うとひんしゅくを買うためゲーム内では黙っているが、それについては日本のプレイヤー側にも問題があると思っている。どちらが悪いという話ではなく、単にこのゲームの捉え方を見誤っているように思う。

このソシャゲの日本プレイヤーは大半が格ゲー世代のオッサンであり、ということは懐もそれなりに温まっている。つまり、課金率にはそういう背景がある。
ゲームのアップデートでどんどん高性能な新キャラが追加され、強くなるにはより課金を求められていく流れはごまんとある他のソシャゲと同じかとは思う。

ソーシャルゲームは面白いもので、やはりソーシャルというだけあって社会があり、その社会の中ではやはり課金をして圧倒的に強くなったプレイヤーが尊敬の念を受けるものになる。
ただの強さだけを求めるスタイルなら他のソーシャルゲームでも出来ること。今の日本、今の時代に奇跡的に生まれたこのゲームにおいて、それをするのは非常にもったいないなあと思ってしまう。

これは"美少女"ではないが"野郎ども"のキャラゲーであり、好きなキャラクターをいかに特化させるかがこのゲームを最大限に楽しむポイントなのだ。


ただ、KOFも99からは魔法みたいなの使うキャラクターが出てきたり美少女が増えてきたりしているので、キャラゲーとしてもいつかは飽きが来てしまうのかもしれない。
それがいつになるのかは分からないが、今はむさくるしい漢チームでこのゲームを最高に楽しんでいる。
(自分が好きなキャラは総じて性能が低く、高性能な人気キャラに殲滅される毎日)



とまあ、長々と書いてしまった。書き出すと止まらなくなっちゃうタイプだから続いていかないんだろう。
今後も続けていけたらいいなあと淡く思っています。

whim(2011.2.3)

死んだと思わせて生きていた私です。すみません。
正直言ってTwitterがこんなにも世の中に浸透するとは思ってなかった。

では何が俺にブログを更新させるきっかけになったのかと申しますと、実はこれが何の変哲もないただの気まぐれなわけで。厳密に言えば何の変哲もないわけでもないんだけど、まあそれはひとまず置いておくことにする。

ブログ書くのがうまいというか、読ませる、楽しませる書き方の人は行間の使い方がうまいんだよね。俺はどうもその辺が苦手。

さっき映画を観ててエンドロール中にホワンと考えていたことがある。別に映画の内容との関連性は全くないんだけれども。

人は何にでも意味を求めたがるじゃない。それが何の意味も持たない行為であっても、時にそれが誤解から喧嘩に発展することもあるかと思う。

例えば俺がさっき観た映画は個人的な評価としてはまずまずだったんだけれども、何の意味もなく気まぐれで絶賛したとする。それこそ『ハンター×ハンター』のヒソカの如く。
そしてその後、俺の絶賛を耳にした他の誰かがその映画を鑑賞し、俺に対して率直に「つまらなかった」と告げる。
そこで俺は「あれは気まぐれで言っただけで、実際はまずまずだったよ」と告白するとしよう。

果たしてその言葉にどれだけの信憑性があるだろうか?
俺が映画好きというのは、まあ俺に近しい人なら大方は知っているはずだ。それを前提に考えると、俺の評価の訂正は第三者目線で「映画好きの面子を保つため、より批判的な評価に乗り換えている」と捉えられるのではないだろうか。
ほら、あれだしね。何事も絶賛する人より、何かと批判的に意見する人の方が通っぽいでしょ。
実際は本当に何の意味もない気まぐれ発言だったとしても、それを告げるケースが保守的なものであった場合、完全に言い繕ってるようにしか映らない。

つまりは、ヒソカに憧れてる人は嘘をつくタイミングをちゃんと考えましょうってことです。
コミュニケーションは意思の受け渡しですから、残念だけれど嘘をつく人は信用を失います。

でもヒソカのような奇人を演じたいと思ってるあなたなら、人の輪から隔離されても平気な強靭な精神をすでに持っていることでしょう。すごいと思います。俺は人との触れ合いがなければ生きていけません。

気まぐれな人間の読めない行動にはファンタジーを感じて光って映るものです。ただ我々に許される害のない気まぐれは、保守的なもの以外の意味を持たないものに限られています。
でもリンゴを指さして「これは毛虫だよ」というような嘘はただのバカなので気をつけましょう。

兎にも角にも、今回ブログを更新した理由は何のことないただの気まぐれです。

ウェザーマン(2010.3.23)

モス。
まるまる一ヶ月間放置。埃かぶって上に物置いちゃってるような状態だね。

冬も峠、送別会ラッシュの3月。人との別れと共に寒さも少しずつやわらぎ始め、春ももうすぐそこという時分ですなあ。

まあ、映画の感想でも書こうか。

『ウェザーマン』



普通。

やっぱりニコラスの映画は面白いのが少ないw

これは天気と人生をかけて、どちらも先が読めないっていうのが主題だね。
ニコラス・ケイジの報われないキャラとしてのイメージアップ的な印象も受ける。確かに役柄に合いすぎだし、彼のために脚本おろしたんじゃないかとも思える。
監督がパイレーツのゴア・ヴァービンスキーなんだけど、やっぱり俺はこの監督の創る作品にあんまり面白みを感じないなあ。
人生先が読めない、思ったとおりになんていかないよっていう表現をしたかったのだろうけど、オチも含めとても微妙な感じでした。
せっかく子供に優しく父親は大切にするっていう微笑ましい良い人間の描写があるんだから、ハッピーエンドとは言わずとももうちょい希望のある方向につくるべきと思った。

ただ、余命幾ばくもないデイブの父親の
「人間の人生はクソみたいなもんだ。 理想を叶える為には、何かを犠牲にして、捨てなきゃいけないんだよ。」 
という発言にはちょっと驚いたw

人生はクソ、ときましたか。

これはデイブの汚い言葉使いにあやかって言ったものだと。
親心から息子を想う正直な言葉。

「諦めろ」を「捨てろ」に言い換えたんだね。
言いたいことは分かるし、確かに良い言葉にも思えるんだけども。

家族と仕事の間で悩んでいたデイブは、これを聴いて涙を流し、意を決したようにNYのハロー・アメリカという番組のお天気キャスターの仕事を受ける。

あんなに愛してる子供たちも「捨てる」わけですか。
確かに夫婦間の喧嘩が絶えず、別れた妻の再婚も決まった状態ではもうどうしようもないかもしれないけどさ。
最後の最後に子供たちと心から打ち解けたじゃない。確実に未練残りまくりだし、仕事にそんなに誇り持ってるようにも見えない。
どうせなら再婚だろうがなんだろうが子供を選ぶべきなんじゃないのか、と。こんな結末で自分の立ち位置を悟るのも何かおかしいような気がした。



でも、実はこの映画の名シーンはここ。

タルタルソースを買ってきてと頼まれ、道中頭の中で

「タルタルソース、タルタルソース」

と連呼。途中信号待ちで前にいた女性を見て

「顔をうずめたい。いい尻だ。タルタルソース」
「今夜は尻まで冷える。タルタルソース」
「僕はアソコを舐めるのが好きだ。でも男は皆同じ?タルタルソース」
「気球で世界を一周する男はどうなった?」
「小説にスパイを登場させよう。タルタルソース」
ニール・ヤング?違うよバカ」
「ニール・ダイヤモンドだろ?」
「急に彼のことが・・・ペニスを2つ欲しい」
スペイン語を習おう」
「そういえばスペイン風オムレツを食いたい」
「渡れるぞ」


そして完全に忘れてるシーンは笑ったw

他にもデイブの息子があの顔から生まれたとは思えないイケメンなのも少し面白かった。
あと、弓を射るニコラス・ケイジがカッコイイ。
そうだ、コーラとかチキンナゲット等のファーストフードを豪快に投げつけられるニコラスが何かすげえ笑えたwww

という面も含め、星三つくらいが妥当かね。

タルタルソース

善(2010.2.3)

やっべ。今日節分じゃーん。
さっきサンクスで恵方トルティーヤというエキゾチックスメルが漂うものを見つけたけど
なんか最近、恵方巻>豆まきな感じだよね。

恵方巻きは栃木県、近畿地方を中心とした風習であり、節分の夜にその年の恵方に向かい、目を閉じて一言も喋らずに、また願い事を思い浮かべながら食べきるといった習わしらしい。
まあ豆よか恵方巻きの方が販促しやすいよな。うまいし、願いが叶うっていう魅力も強いし。
後始末が面倒で恋愛に関する要素のない豆まき。バレンタインデーという2月のビッグイベントの影に覆われて風化するのは時間の問題かもしれん。



さて話は変わるが、最近どうにも大和芋が食いたくて食いたくて、今日の夜は特に食いたくて、でも夜中はスーパー閉まってるしコンビニには売ってないしで諦めてさっき弁当を食ったんです。
そんで弁当食いながら、食いたいものが食えない人だっているんだしなってなんとなく考えてたわけです。


そこでふと思った。そう考える事とそれを食いきる事ってイコールで結ばれないんじゃないか。
そんな事考えながらもしっかり弁当食って、満腹感と謎の達成感。こりゃただの自己満足だ。


さらにそこでは「自分は食える側」の豪華な箱の中にいる事実すらなかなか認識には至らない。
食いたいものを食おうが食うまいが、はたまた一口かじって「まずい!」で捨てようが、食えない人々には何の関係もない。
むしろそんな自己満足で彼らに対し善行を働いたつもりなら、それは逆効果だと言える。


mixiのコミュニティで、ハイチに千羽鶴を送ろうといったプロジェクトがある。
この件は2chからの総スカンを食らっている。
それもそのはず、上記の俺と同じ、むしろそれより上で実際に実物大の同情を現地に届けようってんだから。
今やまさに地獄絵図と化している現地で、命を左右する補給物資の争奪が起きている現地で、果たして千羽鶴がどう思われるだろうか。
「苦労の結晶」、それは現地ではゴミクズ以下。裕福な国からの同情という嫌がらせ。
そして調べれば分かると思うけど第二の災害まで起きる。

心からの善行も、盲目な慈善であれば時に残酷な結果を招く。
偽善だろうが善だろうが、結果何か役に立つならどっちでも良いんじゃないかと俺は思ってたんだが、押し付けの善行は偽善よりもたちが悪いね。気をつける必要がある。
ちなみにこの前500円募金しました。募金が一番の手だと思われる。


そしてちなみに今日は『インビクタス~負けざる者たち~』を観た。



確か『タイタンズを忘れない』も、差別撤廃後にまだ残る人種差別問題を背景とした作品だったね。
まああれはアメリカでアメフト、これは南アフリカラグビーアパルトヘイト中のお話。
しかしマンデラ大統領は偉人だなあ。感心の具合が高かった。


明日はハルヒの消失を観ようと思います。

考え方の考え方(2008.11.27)

るんさ!!!

やー、やっとラジオ収録が終わったよ。放送は11月30日(月)18:30~19:00だそうだ。
なんと当日になるまで俺自身聴けないという。

今のほーんと昔の過去の日記を読み遡ってたんだけど、昔の日記読み返すのって楽しいなw
しかし…見れば見るほどまとまりがないと言うか、書き方が乱雑だこと。
日記とか色々なものの感想とかがごっちゃでタイトルで中身が判別出来ねえw
こういうものって分けた方がいいのかねえ。

まあ特に変えるつもりはないけれども。


ちなみに今、前から気になってた「分ける」と「別ける」の違いを調べてみた。

「分ける」
元々ひとつだったものを分割すること
「別ける」
元々は別であるものが集合しており、それを仕分けすること

どうやらこれが正しい意味合いのようです。

まあこんなん知ってるかw

そうだ!

来週とうとう……刃牙対勇次郎が始まります!!!

刃牙の話出来る人があんまりいないのが悔しい;

これは天地を揺るがす一大イベントだ!
木曜は祭りだぜえええ!!


あと先日、続きが読みたくて『鈴木先生』の7、8巻を買ってしまった。
一冊800円とか高杉www

でもこれは本当に面白い。
これは中学生への教育漫画の範疇に収まらない、物事との向き合い方を教えてくれる漫画だ。

読んでいて勉強になる事が多い。


経験/体験=経験率

これはなるほどと感心した。

経験とは体験した事象から得られたものがある場合を指す。
確かに結果何かを学んでなければ、そういう事があったと記憶に残るだけで何も本人にプラスにはならないよな。


それに、世には到底理屈で答えの出ない問題があるが、そこに人間の感情を介すことで見えてくるものもある。
その人間の感情や事情と言うものの多様なケースを想定する事が、いわゆる経験率の具合で出来るようになるのかな、と思った。


人それぞれと断定する事は考えることを放棄するのと同義である。だが、「経験」を活かす事で思考の幅が広がる。
かと言って分かったつもりで考えの方針を固定してしまうと、そこから先の世界を知らずに限界を迎えるだろう。


様々なケースや物事の見方を知り、整理する。この理論上では「自分の考え」とは万物を知って初めて得るものになるが、そもそもそういうものなのかもしれない。

実際、20歳を迎えた者も実年齢に関してはただ成人なだけであり、精神の成長が一定に達した者を大人と呼ぶ、という気がする。

とにかく、常にどんな時も学ぶスタンスを崩さず、考えるのを止めない事。
確かハガレンでもロイ・マスタングが「思考を止めるな!」て言ってたね。
年くうと考え方が固定されるという傾向があるけど、それはきっとその人はいつしか自分を成長させる努力を止めてしまったんじゃないか、と感じる。

ロッキー4で「私が変わり、皆さんも変わった。誰でも変われるのです!」と言ってるじゃないですか。


ARIA』という作品があるんだけど、これを観てると忘れてた大切な感情が思い出される。こういう気の持ち方をすれば、何とも世界が美しくも見えるんだ。


作中「恥ずかしいセリフ禁止!」って言葉がよく出るけど、つまりこのセリフは冷え切った現代人に重ねて大事な感情を思い出させようとしてくれてるんだな。

世の多くの醜いもの、儚いものを知った時にはこういうものが必要なんだ。

この作品については後にちゃんと書こうと思う。


俺もあんまり頭が良い方じゃないので経験率はなかなか上がらないかもしれんが、みなみけを観て経験値上昇中☆を聴きながらせめて考える事だけは続けていこうと思う。

無への道(2009.6.21)

逆に考えるんだ。

家に帰ってすぐ寝れる人は、今日という日に満足した結果であると…


まあ、当然一概にそんなことはない。

翌日に控える楽しくもなんともない仕事に備え、早々と眠りにつく人間もいる。

「寝る」という行為は、思考の電源をOFFにするという行為。

魔王を倒すべく冒険をする勇者も、寝る時には思考が無になるのだ。


きっと、それがそこに踏み切れない理由なんだろう。


眠くなって寝る分には何の問題もない。

ただ、脳が活発に動いている状態で寝るには、多少の覚悟が必要なのだ。


人間には、一日のうちに使うべき量の器のようなものがあるのかもしれない。

体を動かせば体力を、頭を使えば精神力を。

その器いっぱいに溜まった時、初めて脳は眠りにつくことを提案する。

そしてその器は、時によって大きさを変える。


そして俺もこの日記を書くことで器が満たされ始めたようなので、布団に潜る。

雨音が心地良い。今日もラーメンがうまかった。